猪木イズムの真髄は、格闘芸術である。 格闘とは、闘いによって最強を証明することであり、 芸術とは、華麗なる技術によって観客を魅了することである。 では、なぜ最強を証明する必要があるのだろうか? もともとプロレスの原点はレスリングであり、投げだけでなく、 関節技も含めたランカシャースタイルが母体である。 ところが、プロ化するためには、最強論の前に興行論が優先され なければならず、プロレスは極度にショー化への道をたどっていく。 それに伴い、プロレスは格闘技とは区別されるようになり、 一部の格闘技ファンや格闘家から、 「プロレスは八百長である。」「プロレスは、単なるショーである。」 という発言が出ることになる。 確かにプロレスにショー的要素が強いことは否めない。 しかし、格闘技の要素がバックボーンにあってこそ、 もともとのレスリングとしてのプロレスであり、 それこそが本物であるといえる。 (よって、”純プロレス”という用語は、定義の仕方が逆である。) そして、プロレスは大きく2つのスタイルに分かれることになる。 レスリング技術による最強論をバックボーンとして、魅せる試合を 行うストロングスタイルと、そのようなバックボーンなしで、 ショー的な技術だけを磨くショーマンスタイルである。 (よって、現在の新日本の試合がストロングスタイルであるかは、 大いに疑問である。) そして、プロレスに対する批判を封じるためには、偏見を持つ 格闘家を叩きのめさなければならない。 これこそが、本物のストロングスタイルのプロレスラーがプロレスを 守るための手段であり、プロレス最強論が必要な理由である。 逆にある格闘家が、プロレスラーから弱いと発言されたら、 そのプロレスラーを叩きのめさなければならない。 (もちろん、それはあくまでもリング上の話である。 こんな当たり前のことが分からないプロレスラーや格闘家が いるのは残念なことである。) つまり、プロレスラーでなくとも、己の格闘技にプライドを持ち、 常に闘う魂を忘れなければ、それは猪木イズムであるといえる。 全力で戦っても結果的に負けることもある。試合の数だけ敗者が存在する から仕方がないことだ。しかし、たとえ最強でなくても、最強を目指し、 闘魂を背景としてプロレスの威信を守っていかなければならない。 それと同時に、己の技術を駆使し、観客を魅了し、感動させる。 これこそが、猪木イズムを継承する者に課せられた使命である。 上記の考えに賛成ですか、反対ですか?(猪木ファン限定)
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